日々を暮らす

08/13 アルカヴェワンライ 「足音」

すう、と腕の中から熱が引いて、心地よい微睡みと共に在った体温が失せたことに不快感を覚える。逃げ出したそれを引き戻そうと最小限の力を振り絞って布団から手を出すと、これでも抱えていろと言わんばかりにふわふわで柔らかい弾力のかたまりを差し込まれたので、これじゃないとは思いながらもその丁度よいサイズ感につい負けて、仕方がないと布団の中に引き込んで緩く抱き寄せる。

くすり、と笑う音が聞こえて、柔らかく頭を撫でる感触を享受する。ぼやりとゆるく目を開くが、どうにも睡魔には勝てずに、ゆっくりと遠ざかっていく潜めた足音を意識の隅で捉えて、枕に頭を埋めた。

「♪~」

ご機嫌に最近流行りの歌を口ずさみながら、くるくるとリビングを動き回る。簡単にこしらえた朝食をテーブルに運びながら、そういえばこの前もらった夕暮れの実がそろそろ熟れる頃合いだな、と貯蔵庫を覗くことを決めた辺りで、ぎい、と扉を引く音が聞こえた。起きてきたな、と廊下を覗き込むと、あまりにも眠たいですと全身で訴えているアルハイゼンが、のそのそとこちらに近づいてくる。一旦キッチンに行くのはやめにして、おぼつかない足取りの彼に近づいてそっとハグをした。

彼の聴覚が人よりも少し過敏で、大きな音を少しばかり嫌がることを知っているので、ヘッドホンをつけていないこの朝の時間にはあまり自分から声をかけることをしない。
柔らかく抱き返されて、肩口にぐりぐりと額を擦りつけられる。ふわふわとしたアルハイゼンの髪がくすぐったくて声を押し殺してクスクスと笑っていると、少しばかり覚醒をしたのか、すこしだけ力を強めてぎゅっと抱きしめられて、聞き取れるかどうかギリギリの低いかすれた声でおはよう、と囁かれた。

「おはよう、アルハイゼン」

できるだけ優しく響くように声を潜ませて返事をすると、こくり、と頷いて、ゆっくりと解放された。

「朝ご飯はチキンたっぷりのピタとサラダに、あと夕暮れの実を切っておくよ。コーヒーはさっぱりとした軽めの豆で用意しよう」

アルハイゼンの顔を覗き込むように朝のメニューを伝えると、僅かに口角が上がって見えたので、朝のラインナップにご満足いただけたのだろう。そのまま、先程よりも僅かにしっかりとした足取りで洗面所へ向かう後ろ姿を見送って、キッチンに戻る。
実は、こうやって共寝をした翌朝にしか見られない、甘えたアルハイゼンを楽しみにしている。寝所を共にし始めるまでは知らなかったアルハイゼンの姿だ。
ただの同居人だった頃のアルハイゼンの寝起きは多少口数が少ないとか、動きが重いだとかその程度だったのに、どうやら彼は想像以上に甘え上手な質らしい。
恋人になってすぐ、はじめの頃は慣れない行為に自分が起き上がれなかったのもあるし、あの温かい腕からの逃げ方も分からずにずっしりとした筋肉に囲い込まれながらゆったりとした朝を迎えていた。あの彫刻のように整ったかんばせが朝陽に透けて温かい色に染まっているのを眺めるのはとても充実した時間だったが、体が馴染んで、今日のように平日にも共寝をするようになるとそうも言っていられなくなる。朝食の準備をしようとこの筋肉の檻から抜け出そうとして引き戻された数は既に両手に満ちるほどで、それはそれで悪くはない心地だったが、如何せんアルハイゼンには出勤が待っている。彼が出勤しなくて困るのは、彼以外の人間なのだ。
そこで思いついたのが身代わりにアルハイゼンの腕の中にぬいぐるみを押し込む作戦で、できるだけしっかりとした作りで、ある程度の重さを感じられて触り心地のいい、もふもふのアルハイゼン似の色をした大きい猫の形をしたものを選んできた。そっと抜け出そうとして、物理的に抗えない腕力に引き戻される前に身代わりを差し込む。これが思いの外上手くいったのである。

あらかじめ、平日は身代わりを立てると宣言をするとアルハイゼンは微妙な顔をしたものの、何かしらと天秤にかけてこの作戦を許したので、今のところ、今日まで続いている。
申し訳なさから請け負った家事全般だったが、そもそも日常的に視界に入れるものへのこだわりがある気質なのと、誰かのためになにかをする、という行為が生活に心地のよい充足をもたらしているために割と楽しんで日々を過ごしている。
想像通り、丁度よく熟れていた果実をカットしていると、軽く身支度を済ませたアルハイゼンがキッチンに顔を出した。
火にかかったままのケトルを見て戸棚に手を伸ばしたので、コーヒーを淹れてくれるのだろう。挽いておいた豆をアルハイゼンの手元に移動させて、戸棚を開いて今日のコーヒーカップを吟味する。軽くすっきりと飲めるものだから……ずっしりとした重厚感のある陶器のマグよりも、まるっとしたカップの方がいいだろう。かといって華奢で持ちづらいものは朝には少々煩わしいので、シンプルなガラスのものにしよう。セットのソーサー……はカチャカチャと食器の擦れる音が耳につくので朝は無し。沸きかけのケトルから少々お湯を拝借して、カップを温めておく。八等分に切って簡単に盛り付けたフルーツをテーブルに運んでいると、お湯が沸く音がして、アルハイゼンが火を止めた。後はコーヒーを待つのみなので、キッチンの角からアルハイゼンがコーヒーを入れる姿をゆっくりと眺めることにする。

ドリッパーにセットして濡らしたペーパーフィルターに挽いた豆を入れる。とんとん、と平らに均して、真ん中だけちょんちょん、と僅かに凹ませ、サーバーにセットする。そうしたら沸き立てのお湯をそうっと垂らしていく。湯量が一定に注がれるように維持しながら、中心がほのかに盛り上がってきたら円を描くようにゆっくりと回しかけて、熱湯を豆全体に等しく行き渡らせる。しと、しととサーバーにコーヒーがしたたりはじめたら、一旦お湯を注ぐのをやめて、豆を蒸らす。この豆特有の、少し酸味を感じる、ふんわりとしたコーヒーの柔らかく香ばしい香りがより一層たちこめて、うっとりと呼吸をした。

朝の明度の高い光に色素の薄いアルハイゼンの髪がキラキラと透けているのをぼんやりと眺める。眠たげにくわ、と大きくあくびして、瞼を重たそうに瞬かせている。普段の理性的な印象からはかけ離れた動物的な仕草だが、実は彼は理性的に振る舞うことに重きを置いているわけではないので、わりと大雑把で大胆なことも多い。あるがままである、ということはきっと僕には難しくて、だからこの目には、珍しく貴重に写っているのかもしれない。きれいだなぁ、と鑑賞していると、視線がうるさかったのか、まだ覚醒しきっていない瞳が僕を捉えた。ぱち、と目が合うと、ふ、と顔がゆるんで、彼がそうと体を寄せてきた。机の上の手をきゅ、と握られて、上半身を屈めるので、応えるようにほんのちょっとだけ上を向いて、彼の唇を受け入れた。

ちゅ、と可愛らしい音をさせて離れていった彼が満足げに笑っているのでついつい頬が熱くなる。これも、恋人になってから知った、アルハイゼンの柔らかい表情だ。実は、これが書物や議論以外にも向けられるものだということは、かなりの衝撃だった。

きゅ、といじらしく握られたままの手のひらにそっと指先を絡ませて、彼の隣に並ぶ。

くるくる、ととと、と抽出されていくコーヒーがゆらゆらと容器を満たしていく。

今日も一日。ぼくらの毎日は、こうして始まっていく。